アジア教育最前線 マレーシアレポート 第三回 迷える教育の行方

多民族国家ならではの複雑な教育システムを持つマレーシアで、今、インターナショナルスクール(以下「インター」)が急増しています(「第一回インターナショナルスクールの開校ラッシュ「第二回 実は厳しいマレーシアの教育制度」参照)。インター需要の高まりの主な理由は、英語力への懸念でしょう。日本なら「英語力への期待」となるところですが、マレーシアでは「懸念」です。 

「マレーシアでは英語が通じる」と認識されています。実際その通りで、私はマレー語が全く話せませんが、少なくともクアラルンプールで困ったことはありませんし、異民族間の会話やビジネスでは、英語が共通語の役割を果たしています。

しかし、この英語力、実は若い世代ほど落ちてきていると言われているのです。

1960年代までは英語学校も公教育の一部だったので現在60代以降の人々には流暢な英語を話す人が沢山いらっしゃいます。ところが1970年代からはマレー語を中心とする言語政策となりました。それ以来、英語力を重視する対策もあったものの、最近はまた一層マレー語重視の流れにあります。そこで、これを不安視する親の関心がインターや、英語での授業が多いローカルの私立学校などに向かい始めているのです。この傾向はブミプトラ政策でハンディを負う、中産階級の華人やインド系の間では当然高く、「将来、マレー語で稼げるのか」という問いに対し疑問符をつけているのでしょう。

また、小学生から試験結果で順位づけされるのが当たり前の学力偏重型のマレーシアの教育方法に対して、疑問視する声が、民族問わず、徐々に高まっているように見受けられます。

現状のマレーシアの詰め込み教育について、長年マレーシアの教育現場に携わった経験を持つ日本人の方から印象深い話を聞きました。

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かつての日本も詰め込み教育だったように、成長期のマレーシアにとっても、国民の教育を短期間に一律に向上させ、一部のエリートを輩出する効率的な方法として詰め込み式が有効だった。そして経済成長とともに一定の成果を上げた現在、ドロップアウトする生徒の多さや、エリートでもゴールが学生時代になってしまい、いざ社会に出てクリエイティブな仕事ができない、燃え尽きてしまうなどの弊害が認識され始め、このままでは今後の国際競争に勝ち残れないという危機感が高まっている。けれども学習アプローチを見直そうにも、詰め込み式で育った教師に対応させるのは難しく、身動きできずにいる。

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どの国も国家の将来を担う「教育」という難題の前に四苦八苦している様子が伺えます。

国家でさえ、鉄板の教育を模索しているのだから、私達、親が日々子供の育児や教育方法に思い悩むのは当たり前のことですね。

ところでちょっと話がそれますが、幼い子には過酷に思える順位づけですが、例えビリまで公表されても、意外に子供たちはあっけらかんとしているそうです。

急増するマレーシアのインターですが、政府はこの産業を国家主要経済領域 (NKEA: National Key Economic Areas)として挙げています。少々露骨すぎる印象もあるのですが、皆さんはどうお感じになるでしょうか。こんなに急激に学校数が増えて、各学校独自の教育内容を実践できるクオリティの高い教師が確保できているのか、経験値はどうなのか、学費に見合うほどの教育が期待できるのか。需要の高まりよりも供給が先走りしているのではないか。個人的には期待も大きいだけに、数々の疑問が浮かんできます。今後の動きに注目していきたいと思います。

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大型ショッピングセンターで開催された第四回インターナショナルスクールフェア

最後にちょっとだけ身近な話題を。

私の長男は英語環境の幼稚園に通い、これまではこのバイリンガル環境をメリットだと考えてきました。しかし4歳を過ぎ言葉が急激に増え始めた頃から、英語と日本語が混ざったり、数を言う時は単位(枚、本、個など)をつける日本語より、簡単な英語で言ってしまうなど不安が大きくなってきました。

考えてみれば、何も国語だけでなく、算数も理科も文章を理解する国語力、想像力がなければ理解できません。当たり前と思っていた日本語は実は難しい。

「放っておいたら、将来自分の子供が自分と同程度の日本語の思考力や文章力を備えていないかもしれない。」

そう想像した時の焦りと、何としてもそれは避けたいという思い。これが「母国語」の存在なのかもしれません。なぜこの国で各民族が自分たちの言葉での教育にこだわってきたのか、その思いに触れた気がしました。

Reported by 菅原研究所 和田麻紀子