ニッポンのお葬式 ①

先月の半ば、義父が亡くなりました。家族がいなくなるのは寂しいことですが、同時に、葬儀にかかわる一連の出来事を経験したことは、日本の生活習慣について考えるいい機会となりました。

日本の文化の中で不可思議なものの一つが葬儀の習慣。長年日本人をやっているわたしがそう思うのだから、外国人の目にはさぞかしミステリアスなものとして映るのではないかと。もちろん、世界各国それぞれ文化の違いはあるでしょうけど、欧米の習慣に比べると、日本のお葬式はかなりユニークだと思います。

お祝い事は神社、法事はお寺
日本では、子供が生まれると、地元の神社でお宮参り。結婚も、近年までほとんどが神前式。商売繁盛をご祈祷してもらうのも神社。なのに、死んでしまうと、お寺からお坊さんが来てお経を上げ、戒名という、仏になるための名前をもらって、墓地に葬られます。子供の頃は神社とお寺の違いもよくわからなかったし、手を叩くのは神社、手を合わせるのはお寺。そういうものだと思ってきましたが、なんで祝い事は神社で、葬儀や法事はお寺なのだろうと、いまさらながら不思議に思います。

あまりに不思議なので調べてみると、こういうことらしいのです。日本人は元々、八百万の神、つまり自然そのものを神として崇めてきました。それが後の神道につながるわけですが、神道の概念において、死や病などは穢れ(けがれ)、忌むべきものでした。穢れとは気枯れ、つまり生命力が枯れてしまうことを意味し、人がそうした状態に陥ると、罪を犯すと考えられていました。だから、穢れた状態にある者は隔離され、お祓いを行って収めてきました。一方、仏教が伝来すると、死に対する考え方に革命が起こります。仏教では人は絶えず何かに生まれ変わるものと考えられており、死はそのサイクルの一つであって、穢れとはみなさない。しかも、日本が受け入れた仏教の考え方では、人は死んだら誰でも仏になり、極楽浄土に行けるという。

日本では、不思議にもこの相容れない考え方を持つ神道と仏教が融合し、いまに至っています。しかし、穢れの概念はわたしたちの文化習慣のなかに根強く残ったがために、お祝い事は神道、けれども、穢れとされる死については仏教で取り扱うという関係が生まれたようです。もちろん、これはあくまで一般論で、日本人でも敬虔な神道、仏教、キリスト教を信仰している人はその宗教の教えに従って冠婚葬祭を執り行っています。

アバウトな国民性
そんなわけで、日本人の大半は仏式でお葬式を行うわけです。本来仏教の教えでは、忌中の期間(およそ50日)は、祝い事をせず、肉や魚は食べず精進料理で過ごすこととされているのですが、お通夜の後の席ではお寿司やてんぷらなどのごちそうが出てきます。ごちそうは参列者をもてなすためというのが近年の解釈のようです。また、葬儀の参列者は帰り際に必ずお清めの塩が配られ、帰宅後は必ず玄関前でその塩を体に振り掛けます。が、そもそも塩は神道で穢れを祓うために使うもの。本来仏式では死は穢れとみなさないので、塩で清める必要はない、という意見もあるそうです。

お祝いは神社、法事はお寺という考え方。また、葬儀の細かい部分では神道だか仏教だか境目がよくわからない習慣があったり、忌中にもかかわらず遺族も精進料理どころか、お肉やお魚を食べちゃったり。その時代時代で都合の良い解釈がなされ、それを誰もが違和感なく受け入れている。日本人はきっちりしているようで、アバウトな民族なのかも。しかし、別の見方をすれば、日本人は、お祝い事もお弔いもバランスよく行うことに価値を置いているのだと思います。

Reported by 菅原研究所 青池ゆかり