日本の父親としての中村勘三郎

国民の多くの人がその訃報に、驚きと深い悲しみを感じた中村勘三郎さんの死。それは私にとっても同じく深い悲しみでした。

これほど若くして、やり残したことが多ければ、そして二人の息子、孫に伝えたかったことの多さを思うといかばかり悔しかったろうかと思えてきます。 勘三郎さんの天才の演技の素晴らしさはまさしく日夜の血の滲むよう努力、古典の勉強の結果だとおもいますが、その功績の中でも一番にあげられるのは、歌舞伎は金持ち、年寄りの一部の人のものじゃない、という発想を浅草という下町に作った平成中村座で歌舞伎の原点を私たちに体験させてくれたことです。

歌舞伎座では、あまりのテンポの遅さに眠くなってしまう、、、そして休憩の食事タイムもいれると、あまりにも長い拘束時間に、これではやはり、時間の有り余った人しか楽しむのは無理。。と感じさせられてきたものでした。

一方、平成中村座ではテンポも良く、言葉もかなり今風で、通しでドラマを最初から最後まで一気にああそうだったのか。歌舞伎ってそんなにドライブ感のある息もつかせないドンデンカイシでお客を楽しませてくれるものだったのか。江戸時代の庶民と同じ熱気と興奮と笑いのうずの中で、そばでかぶりついて、役者の汗まで見ることのできる歌舞伎の醍醐味を平成中村座では見せてくれました。

一部の評論家はそれはやりすぎ、下品、との評価もあったのですが、そんな評価よりも足を運んでくれるお客を楽しませることにフォーカスする勇気を持っている勘三郎さんは毎回面白さも衣装も思いがけないドライブ感もバージョンアップさせてくれていました。

まさしく江戸時代は歌舞伎小屋はお互いに出し物を切磋琢磨して、新作をライターとねり、衣装に最大限の金と工夫をこらして、初日に備えていたので、幕が開いてそれを見た大衆は、感極まって、よ!と思わず掛け声をかけたのは今になってわかります。  千両役者は、本当に自分の稼いだほぼ全ての金、千両全部つぎ込んで驚くほどの派手な衣装を用意したので、千両役者と、掛け声をかけられたという話です。勘三郎さんも平成中村座を作った時には、小屋の建設費、少ない客席での収支決算の厳しさなど、リスクを背負ってのスタートだったのではないかと思います。

300年以上続く家柄で、その血筋を絶やさず、芸術をさらに磨き、古いものを大事にしつつ一方では勇敢にそれを打ち破る、そして何よりも足元で、家族の中から次の時代を担う優秀で真面目で才能あふれる歌舞伎役者を育て上げる。。。これはまさしく一番期待されることでありつつ、他のどんな仕事より困難な仕事だと思います。

私も3人を育てた母として子育てのさじ加減ほど難しいものは無いと思い続けてきました。 芸を仕込むには誰よりも厳しい指導が必要です。マナーも同じく。 その厳しさが行きすぎると子供は折れてしまうこともあるでしょう。多くの音楽家の姉弟が親のエリート教育で小さな頃から厳しく指導してもものにならないか、音楽嫌いになるか、、、もしくは親を嫌うか。そんな結果を招いている友人知人は数しれずいます。
それではこの奇跡の伝統芸能、芸術を子供に仕込むエッセンスはなんだったのか、、、改めて考えさせられます。

多分それは父親と母親の信頼、お互いの愛情の深さ、子供のかける愛情の深さではないかと思います。厳しさに耐えられる子に育てるにはそれ以上の両親の深い愛情があって始めて成り立つのだとおもいます。そうしてあらためてみると、勘三郎さんの家族は日本人が理想にするほどの素晴らしい家族です。
父の死を乗り越え二人の息子がさらに大きくその偉業をついで飛躍して欲しいと願わずにいられません。